武士道に学ぶ

明治時代以降の武士道の解釈

明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、1882年(明治15年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。

内村鑑三や新渡戸稲造はキリスト者であり、教育者であり思想家であった。特に新渡戸はキリスト教徒の多いアメリカの現実(拝金主義や人種差別)に衝撃をうけ同時にキリスト者の倫理観の高さに感銘を受けた。新渡戸は現地の教育関係者との会話において日本における宗教的教育の欠落に突き当たった結果、1900年(明治33年)にアメリカ合衆国でBushido: The Soul of Japanを刊行した。本書はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン・パウエルなど、多くの海外の読者を得て、1908年(明治41年)に『武士道』として桜井彦一郎(鴎村)が日本語訳を出版した。さらに、1938年(昭和13年)に新渡戸門下生の矢内原忠雄の訳により岩波文庫版が出版された。

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新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の農学者・教育者・倫理哲学者。

国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。

生涯

岩手県盛岡市に盛岡藩士で、藩主南部利剛の用人を勤めた新渡戸十次郎の三男として生まれる。

札幌農学校へ

札幌農学校(のち北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に 張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められ てたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れ る。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に 入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署 名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。この時にキリスト教に深い感銘を受け、キリスト教にのめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

学者の道へ

東京大学(のち帝国大学、東京帝国大学)進学するがその研究レベルの低さに失望した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク(ハレ大学)より農業経済学の博士号を得て、アメリカで結婚後に1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。

台湾総督府の民政長官となった後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に、台湾総督府の技師に任命された。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業業発展の基礎を築くことに貢献した。

その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学教授、第一高等学校校長を兼任した。東京殖民貿易学校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。

国際連盟事務次長

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれた。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を努めたウィルソン米国大統領の意向により否決されている。余談だが、当の米国は、モンロー主義により国際連盟には不参加となった。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。1926年、7年間務めた事務次長を退任した。

晩年

晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や左翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。

1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフで開かれた太平洋調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸ヴィクトリアで倒れ、永眠する。

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