武士道に学ぶ

テキストとしての『武士道』

『武士道』において19世紀末の哲学や科学的思考を用いながら、島国の自然がどのようなもので、四季の移り変わりなどから影響を及ぼされた結果、社会という枠の中で日本人はどのように生きたのかを説明している。その上で武士の生活態度や信条というモデルケースから日本人の精神的な土壌が醸成された過程を分かりやすい構成と言葉で読者に伝えている。

新渡戸は近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は(封建)社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘している。無論これは新渡戸の考えである。同時に新渡戸にとって武士は国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体への義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであったとするのが今日の一般的な見方である。

新渡戸を含めたキリスト者たちにとって日本の精神的土壌をどのように捉えるかは大きなテーマであり武士道はその内の検証の一つとされている。正宗白鳥(1879~1962)は短編の評論『内村鑑三』(1950)の中で、自分の青年期に出会った内村を心の琴線に触れる部分はあったが概してその「武士道」の根太さが大時代な分だけ醒めた視線で見ていたと率直に表現している。1966年、遠藤周作は小説『沈黙』において、日本の精神的土壌においては神の存在、絶対的な存在が根付かない、すべてのものを腐らせていく沼が日本である、と登場人物の神父に語らせている。

無論、『武士道』以前より内村や新渡戸は日本文化における長所と短所について突き詰めた観察をしているし、戦後の教育基本法の審議委員に新渡戸門下生が加わっていた点を見ても戦後デモクラシーの大きな基盤となった点は間違いない。但、武田清子が主張するように、新渡戸は教育者としての寛容さで異文化との比較、検討をしている点は内村鑑三や植村正久の厳しさと比べると甘さが残る。また、新渡戸は武士道が速やかに廃れたこと、人口の数パーセントを占める支配階級の理念でしかないことから、日本人の伝統に根ざしたものではないとも指摘しているが、日本人の伝統として受け継いだ内容を再解釈した新渡戸の『武士道』は山本常朝の『葉隠』とともに、海外における日本の侍のイメージを決定づけた。新渡戸の著作の影響もあり、bushido は、世界でそのまま通じる言葉となっている。

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遠藤周作著『沈黙』

沈黙』(ちんもく)は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説。1966年に書き下ろされ、新潮社から出版された。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて、神と信仰の意義を命題に描いた。第2回谷崎潤一郎賞受賞作。この小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という考えは、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となった。世界中で13カ国語に翻訳され、グレアム・グリーンをして「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめたのを始め、戦後日本文学の代表作として高く評価される。

あらすじ

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教す る信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡す るロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあっ た。

長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから 響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者た ちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教え に従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏 絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を 踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛み を、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロド リゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。

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