武士道に学ぶ

士道

戦国の武士の気風を受け継ぎ殉死などを行なう傾奇者を公秩序維持のため徳川家綱の代に禁止し、江戸幕府が、儒教の朱子学を公の学問としたため、信・義・忠を重んじ、気高い振る舞いを行なうのが武士であるとされた。このため名誉を金銭より重んじるなど、後世において武士道という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。

しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。そうした武士の一人、佐賀藩士・山本常朝が話した内容が『葉隠』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。

幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。

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武士道と近代の意識

明治になり、武士の多くは士族となったが、身分としての武士はなくなった。その後新渡戸稲造がアメリカ人に紹介するために書いた『武士道』が、日清戦争以降、逆輸入され広く受け入れられ、大日本帝国の軍人が持つべき倫理と接合して、軍人の倫理の骨格をかたちづくり、また一方では、美学として文学や芸能の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。

士族

士族(しぞく)とは、明治維新以降、江戸時代の公家や武士のうち、華族や卒族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に‘士族’と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。

1869年(明治2年)の版籍奉還の後、藩に属する者の身分階級は華族、士族、卒族に編成された。また、公家に仕えていた青侍などの家臣層、寺社の寺侍、また華族とみなされなかった多くの地下家も士族となった。1872年(明治5年)に編製された戸籍『壬申戸籍』に‘士族’と記載され、当時の全国集計による士族人口は全国民の3.9%を占める25万8952戸、128万2167人であった。また同年に卒族(全国民の2.0%を占める16万6875戸、65万9074人)の廃止が決定され、卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入されることとなった。卒族は明治8年までには完全に解体され、明治9年には全国民の5.5%を占める40万8861戸189万4784人が士族となった。

明治から昭和の 初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、4代くらいに渡って兄弟姉妹、配偶者、其々の子供、子孫ら家族全てが記されていた。男子は 結婚しても兄弟全ての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍することはなかった。分籍するのは何らかの特別な事情がある場合 に限り、通常は大所帯の戸籍であった。士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた。大正時代の平民宰相原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。

士族の解体

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、苗字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。この他、1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。

士族身分の解体により大量の失業者が発生した。秩禄を失った士族は公官庁に勤めたり政府や諸官庁に勤めたり、軍人、教員などになることもあったが、職に就けずに没落する者も多く、慣れない商売に手を出して失敗し「士族の商法」と揶揄されることもあった。代表例は「有平糖」(不平党)、「お芋の頑固り不平おこし」(薩摩士族)など。政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産が行われたが、北海道への屯田兵移住などを除き失敗する例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。こうした状況から新政府の政策に不平を唱える士族(不平士族)による反乱(士族反乱)が各地で発生した。また、初期の自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。

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